"雪国で暮らす人々の春を待つ気持ちが分かってたまるか" 『曖昧』 Vol.2
D.C.WHITE 商品企画部 高橋が送る連載企画『曖昧』。
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「今度どこか食事に行こうか」
彼女が言う「今度っていつですか?」「どこかってどこですか?」
やれやれと胸の中で思う。
今度は今度で、どこかはどこかなのだ。
Aでもなく、Bでもない AとBの間を行き来する、そんな曖昧な感情を人は持っている。
もし人が曖昧という感情を持っていなかったら、小説も映画も全くつまらないものになっていたのだろうと僕は思う。
それで、このブログに何の関係があるかって、そこがもっとも曖昧なんです。
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十二歳になった秋まで 僕は北海道の豪雪地帯に住んでいた。中学一年、11月までだ。
遠い昔のことなので、そこに住んでいた頃の記憶は断片的にしか憶えていないけれど 春夏秋冬 四季の移り変わりは今でも目の奥にはっきりと刻み込まれている。
11月の後半になると初雪が降った。やがて雪は根雪の上に降り積もり、あたり一面を真っ白に覆っていった。
公園のブランコも滑り台も埋れて、遊び場はなくなり、学校のグラウンドで野球やサッカーをすることも諦めなければならない季節がやってくる。
大きな檻に閉じ込めらて、外に出て自由に走り回ることをじっと待っている。そんな季節。それが豪雪地帯の冬だ。
朝起きて二階の窓から外を見ると 膝のあたりまで雪が積もっている事が何度もあった。
大人たちは大慌てで雪かきをして、人が一人やっと歩けるような道を作る。
大雪が降ったからといって学校が休みになるわけではない。
ゴム長靴を履いて、縦一列に並んで足元の雪を固めながら通学路を無言で進んだ。
車に積もった雪を、キズが付かない様に注意しながらスコップで除雪して、
フロントガラスに張りつめた氷をお湯で溶かし会社に向かおうとする人達。
けれど、 除雪車やブルドーザーが道路に積もった雪を除かなければそれは叶わない。たかが30~40cmの雪なのに、1600cc程度の車はまるで歯が立たないのだ。
日曜日に外で遊べることと言ったら せいぜいスキー位だった。
ジュラルミンのストックを握る手の感触と、雪の上を滑って行くスキー板先端のノーズにプリントされたブランドロゴを今でも覚えている。
春休み 、雪は解け始め、駄菓子屋のかき氷のように ザラザラになる。
それをかき分けて、一番下の溶かけた氷のように板状になった雪を 一気に剥ぎ取ってみるとそこに地面が現れる。
土の匂いがした。
そして福寿草の芽が 今にも花を咲かせるかのように黄色くなっていた。春が来たんだと実感する時だ。
もうすぐかき氷のような雪も解けて、地面も元通りになればブランコにも乗れるし、草野球もできる。
自転車でどこまででも行ける気持ちになる。
全てが始まる季節。それが春だ。
ゴム長靴の季節が終わるのだ。
学校の先生は季節の移り変わりを地球の自転軸は傾いていて太陽の廻りを・・・・と
丁寧に教えてくれたけど、地球が傾いているなんて、この目では見ることはできない。
春は雪の下からやって来ることを学校の先生は見たことがないのだろうと思う。
やがて短い夏も過ぎて、あっという間に山々の広葉樹が赤くなる。
11月、いつものように日が沈むまで遊んでいると そこら中に飛び交う雪虫に出会い、もうすぐ初雪が降ることを知る。
雪虫は文字通り白い綿に包まれた5mm位の小さな虫。飛び交う様子が降雪に似ている。
雪虫が発生すると初雪が近いと雪国で暮らす人々は身をもって知っている。
またあの閉ざされたような季節が近いと心の準備をするのだ。
「雪国で暮らす人々の 春を待つ気持ちが分かってたまるか」
冬のレジャーを報道するテレビを見ながら皆心の中で呟いている。
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大人になってからは着るもので季節を実感することが多い。
ウールのコートやダウンジャケットを着て、冬なんだと思い、コットンのアウターを着て春なんだと思う。
3月はコートをしまうには早すぎるけれど、4月5月は中途半端で曖昧な季節だ。
ダウンジャケットを着た人の隣に薄手のジャケットを着た人がいたり、5月ともなればコートを着た人がいたかと思えば 半袖シャツの人もいたりする。
僕はナイロンのジャンパーを丸めてバッグに入れて出掛けることにしている。
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